創立宣言文

 

大船渡市にも青年会議所を

「大船渡市にも青年会議所を」というアプローチが初めて一関青年会議所からあったのは、大船渡青年会議所創立の4年前、1965年(昭和40年)の事でした。大船渡商工会議所や、同ロータリークラブを通じて、市内の経済団体などに属する青年たちにそんな話が持ちかけられたとき、多くは、この得体の知れない団体に戸惑いを覚えました。なぜなら、そういう名さえ聞くのは初めてという者が少なくありませんでしたし、第一、名前は知っていても、当時青年会議所というものが一体どんな性格で、どんな目的を持っているのか、一般にはあまり知れ渡っていなかったからです。この時、話を持ちかけられたある青年は、「まあ、商工会議所のジュニア版だろうぐらいに思ったが、会議が週に1回もあり、会費もかなり高いと聞いて、とても大船渡の実情では無理だろうと思った」と述懐しています。大半がこの程度の認識しか持っていなかったため、一関JCも脈なしと思ってあきらめたのか、その後ぷっつり青年会議所の話は話題にのぼらなくなりました。

1969年(昭和44年)、突如、降ってわいたように、大船渡にも青年会議所が生まれるという噂が伝わり、それを裏付けるように初代理事長・菅野佑三と同専務理事・宮澤信平を中心とした数人のメンバーが動き出しました。わざわざ一軒一軒回って青年会議所の意義を説いて歩く彼らの熱情に負け、あるいは心から賛同して、またたく間に80人近い同志が集まりました。一関青年会議所の諸兄も足繁く通い、両者の間で何度も設立の打ち合わせが行われた結果、この年の7月6日に創立総会決行と決まりました。時はまさに盛夏。うだるような暑さにもかかわらず、ここまでこぎつけた喜びに、発起人およびスポンサーの一関青年会議所の面々の心の中には、さわやかな風が吹き抜けました。

創立とその瞬間

創立総会

1969年(昭和44年)7月6日、大船渡魚市場の会議室。緊張した顔々と張りめぐらされた紅白の幔幕、そしてこの日のために一関青年会議所から借りてきたJC旗が、この日の式典が大船渡市にとって、きわめて象徴的な出来事である事を物語っていました。集まった76人あまりの会員と、一関青年会議所はじめ、地区協議会、ブロック協議会、来訪の各会員、来賓などが見守る中に、大船渡青年会議所の創立が宣言され、全員の顔が一瞬に紅潮したこの時、大船渡市の新しい1ページが開かれました。乾杯、一気に飲み干すビールのうまさ。陣痛の苦しみも、この喜びの前には跡形もなく消えました。役員の選出で、設立準備委員長だった菅野佑三が満場一致で初代理事長に就任。副理事長には、新沼敏郎、武田裕、甘竹信二の3名、そして専務理事には宮澤信平と、執行部体制も確立。総務、広報、会員、指導力開発、経済活動、社会開発、教育青少年(のちに青少年問題)の7委員会も設置され、至当な人選が行われました。

式典終了後、会場を大船渡グランドホテルに移して開かれた懇親会には、昼間の余韻さめやらぬ会員たちと、お祝いに駆けつけたJC仲間との忌憚のない交流が行われました。翌日、二日酔いで痛む頭を押さえながら、思わずこみ上げてくる昨日の盟友の誓いの感激に、大船渡青年会議所の会員たちは、青年会議所というものの実態をおぼろげながらも掴み取れた気がしました。これまで、あまりにも小さな枠の中にばかり閉じこもっていた。しかしこれからは違う。青年会議所という大きな舞台が待ち受けている。この舞台の上で十分活躍できるのか、また、出ずっぱりで終わるのかは当面の課題となりましたが、少なくとも、そういう舞台を与えられたことは、会員たちの心の中に大きな変化を芽生えさせるに十分でありました。

実践そして認承証伝達式へ

チャーターメンバー

大船渡青年会議所がまず真っ先に取り組まなければならなかったのは、組織固めでした。考えも、職業も、年齢も、全ての面で異なるこの集団をいかにして、目的に添った団体に仕立て上げるか、いかにして会員相互の和を図るか、問題はあまりにも多く、そのためには、一歩一歩地を固めていかなければなりませんでした。当面の目標として「対話」が取り上げられ、対話の場として、親睦会、家族会など、いわゆる「腹を割って話し合う」機会が多く取り入れられましたが、これは決して飲む事に主眼が置かれたからではありません。事実、こういう機会を通じて会員個々は親密度を増し、信頼関係を濃くしていきました。

こうして築き上げた「和」を飛躍台に、本来の事業へとワンステップを踏み出したのが、発足して2ヵ月後の9月。まず経済活動委員会が「経済活動アワー」と題して岩手銀行専務・吉田孝吉氏を招いての金融講演会を主催したのを皮切りに、青少年問題委員会が市内の青少年の意識調査を実施、現代っ子にメスを入れるなど、会員の能力開発、地域開発の両面に積極的な行動を展開、同月の定時総会で役員全員を再任した後、再び新機軸を盛って事業推進にあたりました。

第一回市民会議

10月、認承証伝達式を翌年(1970年)4月26日と決定、この月からいよいよ当面の最大目標を認承証伝達式に置いて、その準備に取りかかる事になりました。同月28日には一関青年会議所より国旗とJC旗の寄贈を受け、この頃から他の青年会議所の認承証伝達式の視察・見学に派遣が相次ぎました。11月13日には認承証伝達式式典実行委員会が発足、委員長に副理事長の新沼敏郎が選出され、副委員長として、上野守一郎、吉田確三、林陽三、3名が決まりました。1月定時総会で事業計画や予算を決めたのち、まず認承証伝達式への前奏曲として、第一回市民会議の開催が取り上げられ、2月7日、農協ホールに政財界の責任者等を招いて実施されました。住民と行政とのパイプの連絡を謳い上げたこの市民会議は各界からも好評で、会員も一層自信を深める結果となりました。そして1970年(昭和45年)4月26日、認承証伝達式の日を迎えます。
第1回大船渡市民会議抄録

そしてサイは投げられた

認承証伝達式

日本青年会議所から419番目の青年会議所として正式に認承を受けた大船渡青年会議所が晴れの第一歩を飾る認承証伝達式は、1970年(昭和45年)4月26日午前11時から大船渡小学校に、全国JCの仲間をはじめ、市内外の知名士など800人あまりを招いて盛大に行われ、日本JCの仲間入りを来訪会員、来賓ともども祝い合いました。

陸上自衛隊音楽隊の演奏するマーチに乗って、来訪JC名を書いたプラカードを持ったボーイスカウト、ガールスカウト隊が盛町から会場までの目抜き通りをパレード。この記念すべき日を市民にアピールした後、打ち上げ花火を合図に、午前11時に式典の幕が切って落とされました。

式典は宮沢専務理事の総合司会で進められ、甘竹副理事長が高らかに開会宣言。場内一瞬緊張と同時に、国家が会場を荘厳の中に包み込みます。続いてJCソングを斉唱、林LD委員長がJC宣言文を朗読した後、全員が綱領を唱和、これに続き菅原LD副委員長がJCIクリードを流麗な英語で朗読しました。

歓迎のことばとして新沼式典実行委員長は、「ここに全国の先輩JCの仲間入りを果たしたことはこの上ない喜びであります。この国際的な勉強の場を借りて、我々は自己の研鑽を深めるとともに地域の期待を担える団体に育て上げたいと思います。と述べ、参列者に心から歓迎の意を表しました。

続いて上野副実行委員長が来賓一人ひとりを紹介、同じく及川総務委員長が日本青年会議所役員を紹介。スポンサーの一関青年会議所からも小野寺希夫理事長、小梨朝央直前理事長はじめ、会員、遠藤栄次郎東北地区協議会会長、神崎軍平岩手・宮城ブロック協議会会長、来賓として千田県知事、増田盛、小沢一郎両代議士、鈴木八五平、鈴木富之助両県議、大和田助役、鳥沢大船渡商工会議所会頭、武田大船渡ロータリークラブ副会長、滝田大船渡ライオンズクラブ会長、遠藤大船渡警察署長などの紹介が終わったあと、吉田副実行委員長が会場の隅々までピリリと行き渡る名調子で、鴨川、本庄、所沢、仙台、気仙沼など来訪25JCを次々と紹介、盛んな拍手と歓声で式典ムードは一段と高まりました。

設立経過報告を一関青年会議所の小岩光二拡大委員長が行い、これを受けて同青年会議所の小野寺理事長がスポンサーとしての祝福と激励を贈ります。次いで遠藤東北地区協議会会長が「また一つ仲間が増え、心強い。今後に期待しています」と挨拶。ここで再び花火が打ち上げられ、陸上自衛隊音楽隊の演奏するマーチに乗って、認承証が入場、盛んな拍手のうちに遠藤東北地区協議会会長から菅野理事長へ認承証が手渡されました。

続いて菅野理事長が演壇に進み出て、高ぶる感激に目頭を熱くしながら「妥協のない和を育て、発展的変革を追及しつつ、我々は自己と社会を見つめていきたい」と力強く挨拶、その決意を披露しました。佐藤経済活動委員長が会員一人ひとりを紹介したのに続いて、水野渉外担当理事が協力団体およびこの日の式典に彩りを添えたコンパニオンならびに会員夫人を紹介、その後千田知事ら来賓が次々と祝辞を述べました。佐藤広報委員長が祝電を披露、神崎ブロック会長が挨拶をした後、鈴木青少年問題委員長が新市庁舎への記念植樹など4つの記念事業を発表、次いでスポンサーの一関青年会議所に大船渡青年会議所から感謝状と記念品が贈られました。これに対し一関青年会議所でも記念品を贈って返礼、なごやかな雰囲気のうちに式典もフィナーレを迎え、「若い我等」を会場をゆり動かさんばかりに斉唱して、午後1時に式典の幕を閉じました。

エクスカーション

式典後は来賓や来訪会員を大船渡魚市場から2艘の遊覧船に乗せて海から陸中海岸の景勝を案内、次いで細浦魚市場からバスで、レセプション会場である碁石海岸へ。桜のつぼみもほころびんばかりの、うららかな風情を集めた碁石海岸の特設会場は、紅白の幔幕と万国旗や季節の花々などで華やかに彩られ、美しく着飾ったコンパニオンからレイをかけてもらい、会場入りする来賓や来訪会員の表情も晴れやか。レセプションは立食パーティで行われ、後藤会員委員長の総合司会のもとに、次々と交歓が進められた。

会場の正面にしつらえられた特設の舞台では、郷土芸能の「梯子虎舞」「七福神」「鹿踊」などが絢爛たる舞を披露しました。宴も最高潮と達するころには、肝胆相照らした各地の仲間たちの描く友好の輪が大きく広がり、どの顔も親愛と喜びの色に輝いて、互いに議論風発、まさに友情の宴はいつ果てるとも知れませんでした。

レセプション